気づきの覚え書き

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徒然なるままに「コンビニ人間」

最近、実家まで電車に乗ることが多く、
電車で読むものが欲しくて、
本屋で店頭にあった、芥川賞受賞作の
「コンビニ人間」を手に取った。

とてもおもしろく、共感するところも多く、
一気に読み終えた。

といっても、異色の作品だ。
淡々と語られるが、おだやかではない。

実は、興味をもって、
村田沙耶香氏の他の作品も読んでみた。

「殺人出産」と「消滅世界」だ。
これは、「コンビニ人間」が後に到達する世界のようにも、
思える作品だった。
コンビニ人間では、ぎりぎりのラインで抑えてあった世界が、
結末であざやかに広がる。
殺人であったり、異様なセックスであったり。

普段、平和な毎日を送りたいと思っている中年には、
ここまで書かれると少々疲れる。
「コンビニ人間」の世界までが、
知的な観察力、人間描写の巧みさを感じさせる、
一番受け入れやすいラインで切り取ってある。



しかし、まったくちがう話になるが、
この作者の表現する性的欲求を観察する視線は、
地球人でない感覚がある。

ずっと以前に読んだ地球外生命の特徴の中の、
グレイやゼータレクチルの説明を思い出す。
進化のために感情を廃した遺伝子で、生殖で繁殖はしない。
だから、彼らにとっては地球人類の生殖機能が
とてもめずらしい。というものだ。

「コンビニ人間」作者の視点は、まるで彼らのようだ。
進化した知的生物というのは、
やはり全体意識に帰るのであろうと想像する。
個人的な恋愛感情や、孤独感、家族意識など、
こだわる個別の愛ではなく、生きもの全体の愛で生きている。

非二元的な視点であろうと想像する。

そこは、現時点の私達の世界では予想もつかない常識があり、
一人が思い悩むことなどない世界ではないだろうか。

一瞬、それは神の意識に近いように思う。
だが、殺人やどんな性欲もありとなると、
悪魔の意識にも見える。

非二元論では、神も悪魔もない。
善も悪もない。
その立場であれば、取り上げて問題にするようなことは、
なにもない。

そこは、二元の世界に
どっぷりはまっている人間にしてみると、
理解が追いつかない視点であろう。

村田沙耶香氏の今後の作品が、世の中にどう受け取られるか、
そちらが興味深い。

作品に沿って、狂乱、倒錯した性の世界が流行るだろうか?
それとも、痛烈な批判が多くなるだろうか?

だが、ソドム、ゴモラの歴史を経験した魂は、
改めてその世界を文章で読んだら、
とても醒めた気持ちになるだろう。

もしかしたら、彼女の出現はそのためかもしれない。
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# by wakeup71 | 2017-02-26 21:46 | 日常生活 | Comments(0)

日常の受容

あけましておめでとうございます。

ジュンコセレンディさんのわかりやすい動画を繰り返し見てます。
新しい動画もまたいくつか投稿されました。そのうちのひとつ、
腹ペコ青虫のはなし
は非常に実感があります。

今の生きてる世界は、殻を脱ぐ前の青虫の世界だというのです。
これは、とてもわかりやすい。
たくさん葉っぱ食べてる。
自主的にどうにかしようと食べ続ける。
もうどうにもならないなと思ったとき、
ぴたっと食べるのをやめる。

するとサナギになる。
中がドロドロになって身体がなくなる。
気づいたときには、蝶になっている。
ヒラヒラと飛んでいる。
そこから見える世界は、青虫のときとは全くちがう。
葉っぱばかり気にしてた世界とは…

私にはとてもわかりやすい例えでした。
(子どもの自由研究で60匹以上の蝶を育てました。笑)
蝶になった世界は、一瞥体験後かもしれません。
もしくは死んだときかもしれません。
ただ、そのときの世界観は、今とは全くちがうのです。

ですから、青虫の間のことは、気にしなくていい。
すべて忘れてしまうことでしょう。
悲しみも苦しみも、
喜びも幸せも、
すべてちりぢりになって、
消えてしまうでしょう。

そうなると、お葬式がお祝い事として行われる文化も、
もっともなことに感じられます。
青虫の世界は、卒業して、蝶の世界へ。
そんなことがわかっていた時代のことだったのでしょう。

***************************************

私事ですが、母がボケ始めたようです。

時間や日付がわからない。
場所を忘れてしまう。
興味のないことは、やらなければいけないことでも、
忘れてしまう。

キャッシュカードや通帳も忘れてしまう。

まるで、両手で水をすくおうとしても、
隙間からこぼれ落ちるように記憶がなくなっていく。

考え方は「どうせ死ぬだけだから」となる。
老人性のウツのようだ。

あわてて認知症について調べる。
介護保険、施設について…。

いきなり子どもの生活に介入してくる、
これらの手続き。

日々の生活だけで、家族の世話、仕事、家事でせいいっぱいなのに、
さらに追い討ちをかける。

こうしたボケの症状は、まるでサナギの状態へいく青虫のようだ。

彼らは、もう葉っぱを食べる必要性を感じない。
おいしい葉っぱの場所を覚える必要もない。
朝、夜の日付時間の観念もない。

ただ寝ていたい。

筋肉が弱くなる。立てない。ヒザが痛い。

サナギの中は、もう身体はとけてなくなっている。
脳がとけていくようだ。
蝶として再生する準備となる。

それが、人間ではボケの症状のようだ。
だから、無理もないかもしれない。
元気なまま死ぬというのは、事故に合うことだ。
それはサナギを飛び越えて、突然、蝶になることかもしれないが。

サナギになると、回りがアセる。
身動きとれない老人をどう世話していいか。

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「ツマグロヒョウモン」
(サナギには金のボタンがついている。
 食草のスミレから抽出してるのだろうか。
 みごとな金ボタンなのだ。)

しかし、もしかして、
老人のボケに対して万全の対策というのは無いのかもしれない。

青虫がサナギになるというのは、自然なことだからだ。
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# by wakeup71 | 2017-01-02 14:46 | 日常生活 | Comments(0)

ジュンコセレンディーさんの動画

この頃、earth-TVで紹介されたジュンコセレンディさんの動画にはまっています。
この動画

10分~50分くらいの動画が38話くらいあって、
かなり見ごたえがあります。
そして、何度も聴けば聴くほど理解が深まって、
さまざまな気づきがあります。

テーマ的には日常的な人間関係から、
宇宙の仕組みや悟りについてまで、広い範囲に渡っています。

語り口も優しく、バックに流れる音楽も癒し系で、
なおジュンコさんが書いてくれるホワイトボードがわかりやすい!

私の場合は、壮大な宇宙の話も興味があったのですが、、
身近な普段の精神状態の仕組みが勉強になりました。

改めて、奇跡講座のワプニック氏が説明してくれていた、
投影のことが思い出されます。

ジュンコさんはプロフィール上はあまり詳しいことは
書かれていませんが、こうした精神医学的なことも、
かなり学ばれているような気がします。

今日は、earth-TVの地球ひろしさんが主催するLiveを見てきました。
講演者は、地球ひろしさん、ジュンコセレンディさん、やまがみてるおさんでした。

聴きたかった投影について質問しました。
私が理解したものをまとめておきます。

ジュンコさんの動画で、よく登場する人間の状態に、

無限の価値観 ←→ 無価値感

というのがあります。

私達が慣れている状態は、

自分に無価値を感じている状態です。

その状態が、なにかをやらなければ、という義務感を生み、
自分の存在価値が危ぶまれているという恐怖に続いています。

あまり、直接的にそう思ってはいないと思いますが、
なにかに努力したり、人に認められようとしたりするのは、
自分の無価値を感じているからということです。

人がよく、身近な人や状況に投影してしまうのは、
無価値感の状態の場合です。

そして、それはやはり育てられた親からのしつけで、
「親に喜ばれたい」
「叱られたくない」
「親から認められなければ存在価値がない」

 ↑つまり生きてちゃいけない、恐怖、不快

という思いが、まるで洗脳のように
精神を枠にはめていきます。

それは、けして虐待ではなく、
ごく自然なしつけ(マナーや生活習慣など)も、
そうした枠になっていくのです。

(これらは、私が初めてカウンセリングを学んだ、
 中尾英司さんの本でも繰り返し書かれていた)
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基本にもどってみると、やはりこの洗脳システムが、
どれほど、みんなを苦しめていたことか。。。

長くなりそうなので、また次回続きを書いてみます。

この動画シリーズがずっと聴き続けられていいです
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# by wakeup71 | 2016-11-23 23:26 | 日常生活 | Comments(0)

なまけもののさとりかた、つかめないもの

ヨガナンダ氏のクリヤ・ヨガの講演録を読んでいて、少々疲れてしまった。

神の世界、宇宙について、あの世についてなど、

それは正しい

と思われることばかりだった。

正義をふりかざすことは、その反対もあるということを考えなければならない。

非二元は、私は真実だと思う。
だがそれに至るまで、段階的に進まなければいけなかったのだろう。

クリヤ・ヨガの教えは非二元を指し示しつつ、やはり善を説く。
調和を重んじる。思いやり、優しさを大切にする。

これらは、日常生活を送る上で必要な態度だ。

だが、現在では善を説くだけでは、視野が狭い。


みんな勧善懲悪の話は、聞きやすい。
事件の原因が、誰の何の行為か、わかれば社会は納得する。


しかし、もうその考え方は幼いのだ。


タデウス・ゴラス氏の「なまけもののさとりかた」を読んだ。

第一章から~

「私達はみな平等です。
 そして宇宙とは、私達のお互い同士の関係です。
 宇宙はただ一種類の実体からできていて、
 その一つひとつが生命を持ち、
 一つひとつが自分の存在の仕方を決めています」~

ゴラス氏が決めた本の基本となるルールはこの文章だ。
そして、やはりこれこそが真実であろうと思う。

これは、短いが、平等の意味を考えさせる。
物事の良し悪しは、不平等を招く。
世の中をジャッジすることが、なにも解決しないことを意味している。
いい加減、これに気づいていたいものだ。

~一つひとつの生きものの基本的な営みは、
 拡張することと収縮することです。
 広がることと縮むこと、といってもよいでしょう。

 拡張した生きものは「スペース」となって
 四方に浸透してゆきます。収縮した生きものは濃縮し、
 「かたまり」になります。
 私達は個人としてもグループとしても、
 「スペース」「エネルギー」「かたまり」のうちの
 どれかになって見えます。~

これは実にわかりやすい。
私達は眠っているときは、「スペース」となって広がり、
自己を意識していない。
それは、何でも受け入れている無の状態。
しかし、目を覚まして自己を意識したとき、
「かたまり」となって凝縮する。

そこに日常のドラマが起こる。
「かたまり」は個別意識として働き、不完全さを感じ、競い、
奪い合い、社会を作り出す。


そして、ネットをうろついていてジョーン・トリフソンさんの
「つかめないもの」に触れることがあった。

この本は、実に印象的な文から始まる。

~風に揺れる一枚の葉に落ちる繊細な午後の日差し、
 青空を横切る白い雲、
 売春のために売られていく子どもたち、
 飢饉から逃げのびようとする餓死寸前の難民、
 寛容と優しさが表れたすばらしい行動、
 気を滅入らせる鬱の苦痛、
 海に流れ出る原油。

 生にはいろいろな表情があります。
 ある瞬間には美しく、
 つぎの瞬間には耐えがたく、
 そして理解を拒む恐ろしさを見せたかと思えば、
 言葉にしようもない優美さを表します。~


これらの事柄は、日常的に起こり、TVで見せられ、
私達は一喜一憂する。
まさに世の中は、幸せな毎日ばかりではない。
雨も降れば、台風も来る。

ある賢者の言うとおり、
何が起こっても、「いずれ、これは去る」と
思っていることが必要となる。

山あり谷あり、
苦あれば楽あり。



非二元の悟りを得れば、幸せばかりの世の中になるのかと
思っていた。
それは、あやまりだった。

より進んだ知性のある文化では、
善いことをすることは、対する悪いことを生むことは、
承知の上であろう。

平等とは?

それはジャッジをしないこと。

事柄の上では、善いことも悪いことも同じエネルギー量なのか。

そう思うと、すべてが変わってくる。

生活や仕事や社会の場面で、いかにジャッジすることが多いか。
ジャッジが社会を作っているといってもいいくらいだ。

貧富。

善悪。

優劣。

明暗。

好き嫌い。

これらのどちらか一方の行動をとれば、
もう一方も動き出すというわけだ。

だから、ブッダは中庸を説いたのか。

中庸がわかっている文化の人々は、
たぶんジャッジをしない。

しても最小限のことだろう。


もしすべてのジャッジをしなくなったら?


「かたまり」は「スペース」となって
とけていくのだろう。


実体はなくなっていくのかもしれない。


「なまけもののさとりかた」タデウス・ゴラス著

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン著

いずれもすばらしい本であった。


この2元の世界の仕組みは、
なんと巧みなことだろう。

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# by wakeup71 | 2016-10-03 00:26 | 日常生活 | Comments(0)

あるヨギの自叙伝と非二元論

しばらく仕事と家事で手一杯でした。
また、疲労と更年期のせいか、ケガをしたり抵抗力が弱まったり。
身体も敏感になり、食べ物によってすぐにじんましんがでてしまったり。
手を差し伸べてくれるようなお顔が表紙にある、
ヨガナンダの本に惹かれてしまいました。

「あるヨギの自叙伝」 パラマハンサ・ヨガナンダ著


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非二元の情報だけにひたっていると、
いつのまにか孤独になってしまいます。
(一瞥体験があれば別ですが)

神はいない
自分もいない
世界は存在していない

それが真実なのだというのに、
なぜ楽になれないのか。

子どもの頃から、「神」に祈ることは当たり前でした。
家では父もお経をあげていたし、子どもたちもそれが当たり前でした。

「神」はいない
ということが、心にどれほど空白を作ってしまうか、
ヨガナンダ氏の本を読むまで気づきませんでした。

「あるヨギの自叙伝」では、当たり前のように神に祈ります。
聖者は存在し、弟子達に手を差し伸べます。
その様子は、心を温めてくれるものでした。

「神」はいるんだ、やっぱり。

ちょっとそんなふうに思いました。
この本を読んだら、いろいろと検証したくなることがあります。
誰もが気になるババジという聖者が紹介されています。

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例外なく私も気になってしまいました。
ババジは本当に神のような存在です。
年齢も1000年を超えていたか。
それなのに常に若々しい20代の肉体で現われ、
変幻自在であるようです。
思わず、ババジの本も読み込んでしまいました。

彼は調和を重んじ、回りに少しでも、不調和を感じると、
すぐにその原因に一言注意をします。
その様子は、二元的な善悪の世界かもしれません。
しかし弟子達にとっては、わかりやすい教えです。
それは、親が子を諌めるような愛情のこもったもの。

非二元の世界は、ババジやヨガナンダのクリヤヨガの考え方で言うと、
どういうものなんだろう?
それが気になりました。
ババジやヨガナンダやクリヤヨガの聖者も、
非二元の世界はわかっていて、その前段階として、
善悪を視点にすることもあるのだ、というのが自然な気がしました。

ババジの「光の道」はかなり俗世を感じさせるものではありました。
書いた人が、ドイツ人女性の弟子であり、
彼女のババジに対する熱狂ぶりは、空港にアイドルを迎えにいくファンの様相でした。
さまざまな奇跡を起こすヨガの聖者達をみていると、
人を惑わす魔術的なものも感じさせます。
人々が熱狂してしまうのもわかるような気がします。

けれども、
「あるヨギの自叙伝」の中盤ではユクテスワ師の講話や
ラヒリ・マハサヤ師との逸話もあり、
彼らの知識や話は現代の量子力学に通じるものがあります。
これらは非二元の世界がわかっている前提があると感じられます。

最後の方で、ヨガナンダの師である、
スリ・ユクテスワとの会話が書かれています。
それは、師が亡くなってからの会話で、
劇的な死後の世界が語られています。
これらはすべて驚くべき記録です。

ヨガナンダ氏は、生き証人として、
存在するいろいろな聖者を紹介して、
人々に人間の到達できる悟り、
その先の世界を表現しています。
けして説教ぽくない、読み手をひきこませるものです。
にもかかわらず、かなり真実に近いものであると思われます。


そうなると、また検証したいことがでてきます。
この本に出てくるババジはキリストとも親交があり、
またヨガナンダ氏の引用でも、仏教よりキリスト教の方がよく語られます。

以前見た、古代文明を研究する動画では、
キリスト教はミトラ教をそのまま使ったものであり、
またキリスト教は陰謀論的には、かなり曲げられたものになっています。

キリストという存在を疑うのもなんですが、
名前はともかく、逸話の内容から真実味を感じられるものを信じたいです。
その基準が、私の場合は奇跡のコースに準じるものとなっています。


人類に見本を示す、聖者の役割、その魂の出所まで考えてしまうこともあります。

これは最近では、ほとんど確信となっていますが、
地球に人類の種をまいたのは、別の惑星からきた存在です。
超古代文明では、彼らを神としていました。
そして、その中には人類をロボットのように使うつもりだった存在や、
自立した魂として育てるつもりだった存在や、
その他にもさまざまでした。

それらの存在は「神」というより、
個人意識のある二元的世界の生命であるといえます。

やっぱり「神」はいないのでしょうか。

答えはみつからず。

悩む前に、頭の中を空っぽにして、

「いまを生きる」

ことば無き意識に気づくことしかできません。
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# by wakeup71 | 2016-08-17 00:38 | 日常生活 | Comments(0)