非二元の世界では、主体も客体もないんだとすると、
「投影」 という考え方もどうなんだろう?
投影というのは、投影されるものがあっての言葉だ。
現世界は自分の中身の投影だという非二元論の初歩的入口があるけれども、
実際にはそれもおかしい考え方だというわけだ。
だって、自分というものは存在してないんでしょ。
・・・・
では、この世界ってなに?
どういう構造になってるの?
投影するものも、
投影されるものも、
ないとすると、、、
全体しかなくて、側面としていろいろあるだけなのか。
とりあえず、自我としての考え方では。
何があろうと。
戦争があろうと、
虐待があろうと、
犯罪があろうと、
平和があろうと、
親切があろうと、
助け合いがあろうと、
すべて、大きなLifeの一側面。
良きも悪しきも、まるごとひとつ。
自我の意識で考えると
ある側面が分離した個人のように見えるけど、
そうではなくて、すべてがひとつのものがもつ側面なのか。
自我はいいところだけ、自分だと思いたい。
だが、そうやって切り離して考えると、
周りには反対の悪いところだけ目に付いていく
だから、善悪の善だけすくい取って、
「私はわるくないのよ、あの人のせいなの」
と言いたい。
実際は、善悪まるめてひとつだから、
どちらかに偏らなければ、
善も悪も目立たなくなる。