気づきの覚え書き

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2514年のオリンピック

2514年2月5日

さて、いよいよ4年に一度の冬季オリンピックが始まりました。
今年の開催地は、500年前の開催地と同じ、ソチとなりました。

そこで、2014年のオリンピックを振り返りたいと思います。
国境のない今では、オリンピックは民族の優劣を競い合うものではなく、
それぞれのスポーツの能力を認め合い、高めあう祭典となっています。

資料によると、当時の地球にはまだ国境があり、
オリンピックは国同士の戦いでもありました。
もっとも戦争に比べればずっと平和的で、スポーツで点を競い合うものでしたが、
2514年現在と比べれば大きく構成の違うものでした。

メダル争い(1位~3位までの選手に金銀銅のメダルを授与する習慣)が
主だった目的であった当時は、メダルのとれなかった選手は落ち込んで、
涙と共に国へ帰るということが多かったようです。

「国」「祖国」という意識が異様に強い時代だったのです。
2514年の現在では信じられないことです。

今では潜在意識が私たちのすべてであると気づいた人類は、
だれのどんな経験もみんなの経験となるので、何事もシェアする文化となっています。

現在の我々のオリンピックはは、たとえ競技中でも、すぐに相手の心情が伝わり、
おたがいに技術をシェアしあい、高めあうことを喜びとします。
シェアすることで、技術や能力はより高く進歩し、
また自分を深め広げることができます。

しかし、人類のほとんどが個の意識が強かった時代では、
オリンピックは戦いとなっていました。
もちろん当時は、オリンピックだけでなく、
何事も奪い合わなければ生きていけない状況でした。
経済(貨幣の存在)や身分(上下関係)国(地球を境界線で分けたもの)など、
さまざまな区分があり、生きること自体が相当ハードな時代でした。


しかし現在のようなオリンピックになったきっかけは、
この2014年の冬季オリンピックのある選手の存在であるといわれています。

それは日本という国のフィギュアスケートの競技選手である、
浅田真央(あさだまお)さんという人でした。
彼女は、2回の演技の中で、1回目に自己最低点を記録しました。
それは、「日本」という国の人々にとって、かなり落胆するものでした。
というのも、浅田真央さんは優勝候補(当時でいえば金メダルというもの)を
期待されていたからです。
金メダルというのは、国全体に活力を与えるエネルギーのようなものでした。
「金メダル」という意識自体のまとまりが大きかっただけなのですけれども。

けれども、当時の人々は「金メダル」をとれば、
みんなが幸せになり(戦争に勝ったように)、
経済(貨幣で物資を奪い合う構造)が活発になる、
さらにオリンピック選手(戦士?)が育つ、というような
勘違い文化を信じていました。

しかし、浅田真央さんの1回目の失敗は、
完全に「金メダル」を期待できないものにしてしまいました。
日本国民は一夜にして、戦争に負けたように真っ暗になってしまいました。
ほんとうに、なんとおろかなことだったのでしょう。
でも、少しずつ多くの人が気づき始めました。

私たちが欲しいのは、金メダルじゃない。
真央ちゃんの笑顔だ・・・ということです。

これは、当時の人類にとっては、画期的な気づきのひとつです。
奪い合いが当たり前だった社会で、誰もが優しい気持ちをもって、
選手をみることができたのです。

翌日の2回目の演技で、浅田真央さんは逆に最高の演技をすることができました。
それは、まるで奇跡のような出来事でした。

2514年の人類の間にはプレッシャーとなるような期待や、
勝ち負けの区別をつけるスポーツは存在しません。
強いて「勝ち負け」という判断をつけるなら、
いかにそのスポーツ能力を広めたか、ということが評価となります。

現在のわれわれは「得たいのなら、すべてを与えなさい」という、
キリストの言葉が当たり前になっています。

そして、この2014年のソチで開かれたオリンピックで、
この精神の芽吹きが見られたのです。

2回目で最高の演技をしても、浅田真央選手は金メダルもその他のメダルも、
とることはできませんでした。

しかし、日本中の人々が歓喜にあふれ、真央選手を讃えました。
その人々の歓喜のエネルギーを真央選手もしっかりと受け止めました。

このすばらしい愛(意識のエネルギー)の交換は、
メダルだとか物質的な計りではない、すばらしいものがあるのだと、
人類に気づかせるものになりました。

2014年のオリンピックを境に、
日本国民は以前ほどメダルを意識しなくなりました。
のびのびとした感性でスポーツを讃えるようになり、
勝負の行方を追い続けることに重きをおかなくなりました。

これは、結果的に多くの選手にポジティブな精神を根付かせて、
本来喜びであるスポーツを思い出させることになりました。

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by wakeup71 | 2014-02-22 23:01 | 日常生活 | Comments(0)

オリンピックをみて思うこと

ソチオリンピックで、メダルをとったりとらなかったりで一喜一憂します。
勝負に負けてしまうときは、ほんとにわずかなミスが多いです。
中には、金メダルをとってさえも、ミスをあやまってしまう選手もいたりして。

オリンピックではないけれど、自分の日常も毎日の仕事は真剣勝負。
たぶんほとんどの日本人がそうですよね。

ミスはゆるされない・・・

オリンピックほど注目されてないけれど、日常の仕事も、
ミスをおかさないように私たちは気をつけてます。

もう、国単位でなにか不始末があると、大変なことになります。

ミスをおかさないことで、社会が正常に動く、物事が正しく納まる。

そんなふうに自然と考えてしまいます。

だからいつも「ミスしちゃダメ」と警戒態勢です。

警戒態勢が強いほど、ミスをおかした人は責められます。


でも、ここで気づくのは「ミスをおかした人を責める」ということが、
なんの役にたつだろうかということです。

一方でヒューマンエラーは当たり前という考え方があります。
「ミス有りき」で、フォローを前提にした体制づくりがあります。

また、本来「ミスをおかす」ことが、本当に悪であるわけもないです。


職場で、いろいろな個性があり、
のんびりした人やあまり気が利かない人もいます。
みんなそれぞれの長所があり、短所があります。

ある人の行動や態度に、かちんときた時、
逆に考えると、自分には「その行動や態度」が足りなかったんじゃないか?
と振り返ると、実にまったくその通りです。

ミスをゆるさない風潮は、生真面目社会の日本の特徴でもあります。


オリンピックをみていて、自分がカチンときたり、がっかりしたとしたら、
それは、その状況を受け入れることができない「自分の心の反映」なんですね。

そのことを気づかせるための経験だったわけです。

そして、それが私の足りないところだったわけです。


日本人は、もっとのんびり生きていい、と私は思います。

生真面目なところが、いいところではあるけれど。

それに気づいたとき、もっといろんなことが赦せるようになる感じがします。

天命に全部託すことができるようになるといいのにと思います。

それがきっと、新しい進化。

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by wakeup71 | 2014-02-20 06:24 | 日常生活 | Comments(0)