井上雄彦氏の漫画「バガボンド」を読みました。
まったく、遅ればせながら・・・
いつも絵に惹き付けられていましたが、
夢中になっている時間はない、と思っていました。
それがコンビニに並んだ37巻を見つけたとき、
武蔵のこの表情、この構図から、なにかどうしても読まなければいけないような、
すごい引力を感じてしまい、1冊買ってしまったが最後、すべて手に入れずにはいられませんでした。
本当にすばらしい漫画でした。
表紙には一応、吉川英治氏の「宮本武蔵」が原作とあります。
もっとも、ストーリー的にはずいぶんアレンジしてありました。
だけれども、いっそ漫画の方が実際の人物に近かったのではないか?と
思うほど、迫力があります。
現代で、私たちが思い描く武蔵の姿はさまざまです。
漫画ですから、どんな内容でもアレンジは自由です。
今では、どんなストーリーを書いたとしても、すべてフィクションです。
でも、井上雄彦氏のこの武蔵は、本当に血の通ったそこに居る人間のように感じてなりません。
このリアリティはなんなのだろう?と。
もちろん、このすばらしい絵(芸術の域)のせいでもありますが、
この絵を描くための井上氏の仕事の流儀がNHKの番組でも紹介されており、
その集中力に驚きました。ごらんになった方も多いだろうと思います。
漫画のもとになるネームは、本当にその時の武蔵の状況や心情に達するまで、
じっくりと井上氏の中で練られます。
締め切りの前日まで、絵が描かれないことも・・・
その集中力は、たぶん時空を超えて、武蔵の気持ちに至っているだろうと思います。
あるいは、武蔵のように生きた人、生きている人物に達しているのだと。
ものを作り出すときは、できるかぎり本物であれ、とよく言われます。
事実に近いものであるほど、作品には命が吹き込まれます。
しかし「バガボンド」はそれだけでは、ありませんでした。
それは、このごろになって、ようやく私も気づくことができた、
無我について語られていました。
武蔵は、たくさん人を斬ります。
人を斬って、斬って・・・
こんな経験は、現代の私たちでは滅多にありません。
漫画でも、リアルな経験のようになります。
このような経験をしても、なお、どう生きていったらいいのか。
究極の生き方を考えさせられます。
一方で、最新刊に近い巻になると、武蔵はまるっきり反対のことをしています。
飢饉にある集落を救うため、稲を植え始めるのです。
37巻には胸をしめつけられるほどのシーンがたくさんありました。
「人間はどう生きたらいいのか」
武蔵のつぶやきは、そのまま、自分の心にかえってきます。
漫画を読みながら、自分の心を観察します。
人を切ったとき、どうだったか。
子どもを救うとき、どうだったか。
飢えるとき、どうだったか。
土をたがやしたとき、どうだったか。
種もみを植えたとき、どうだったか。
稲が育ったとき、どうだったか。
言葉にならない、感覚を追うと、
心臓がじんじんするような感覚に出会いました。
「?」
もしかして、経験はいつも同じなのか?
同じ感覚であったのか?
漫画では、小次郎の生き方と武蔵の生き方は、
人を切るとしても、まったくちがう動機でした。
でも、その時の感覚は同じ。
じんじん。
殺戮のシーンでも、食事のシーンでも、
稲を植えるシーンでも、喧嘩のシーンでも。
じんじん。
これが、人間が存在する意味なのか、と思います。
人を切る行為も、苗を育てる行為も、宇宙にとっては同じ意味なのかもしれません。
「バガボンド」はまだ終わっていません。
武蔵はどこまで悟るのかな・・・
見守っていきたいです。
模写でもしながら・・・