今日は、初めてダグラス・ハーディングさんの実験を体験してきました。
1年ちょっとお休みされてた高木悠鼓さんのイベントが再開したのです。
これは、イベントの説明によると
ダグラス・ハーディングが考案した「私とは本当は何かを見る」ための実験をみんなでやり、
あらゆる存在に共通する本質を分かち合う会です。
詳しい内容は
ここにあります。
ダグラス・ハーディングについては
前にも書いたことがあります。
簡単な自己紹介の後、高木さんのお話があり、さっそく指差し実験から始まりました。
これは、私が最初にダグラス・ハーディングの動画で試したものでした。
その動画で、私は虚空を指す自分の指を見て衝撃を受けました。
イベントではひとつひとつの実験の後、高木さんから感想や質問の声かけがありました。
これが、実はやはり初対面同士の日本人のイベント、なかなか声が出ません。
もう少し、率直に言ってみたらよかったなあと思いました。
この実験のとき、私は、
見るを見ている
という感じになりました。
自分というより、そこにあったのは「見る」という知覚でした。
そして、確かに自分の頭を見ることはできませんでした。
自分の顔を指差しても自分の頭を感じることはできません。
これを、
頭がなくなる、といいます。
だれかの質問で、頭がなくなる、ということがわかりません、というのが出ました。
高木さんは、私もそうでした、とおっしゃり、
ではこうするんです、と提案して、頭を耳あたりから両手で触りました。
それは、つまり、知覚の方法が変わっただけなのです。
触るを感じている
私は、耳に温かみを感じました。
でも、自分の頭を抱えるように感じることはできませんでした。
頭は、やはりありませんでした。
その後、鏡の実験へと続きます。
手鏡に自分を映す。
というありふれた行為を、生まれて初めて鏡を持った幼児のように、
再体験します。
ありふれた行為を初体験に戻すには、ある程度、時間や覚悟がいります。
そこで、私は「自分でないような」顔を見ました。
顔が入らなくなるほど鏡が近づくとき、視野を再認識します。
再認識や再体験するとき、自分が生まれたてに戻ったように感じなおすと、
実験は成功しやすくなります。
その後の休憩時間中の高木さんの思い出話が素敵でした。
ダグラス・ハーディングはおバカさんか天才かわからなくなる、というのです。
彼はチョコレートが好きで、それをつまむとき、ずっと見てるだけだったものが、
クチに入れた瞬間、味覚に変わる!というのをとても新鮮な喜びをもって語ったのだそうです。
他の人がクチにいれるのを見ても、味覚には変わらないけれど、
自分のクチに入れた瞬間、味覚に変わる!なんてすばらしいことだ!と。
その知覚の変化!
私には、赤ん坊のようにはしゃぐダグラスさんの気持ちが感じられました。
その時、みんなで用意されたお茶菓子を一口づつ、つまみました。
そうです。
まったく、その通り!!でした。
「見る」 「つまむ」 「おいしい」
生まれたての赤ちゃんは、そんなふうに生きているのです。
子どもを、初めて芝生の上に座らせた時のことを思い出しました。
全身で喜んでいました。はしゃいでいました。
きれいな緑、ちくちくする、やわらかい、草のにおい・・・・
その後、紙袋の実験へと続きます。
これは、私はちょいとむずかしかった、と感じました。
やはり、初対面の相手とこの実験をするととても緊張してしまうのです。
相手を気遣うか、時間を追うか、それらのことが気になってしまうのでした。
ですから、これは、気心のしれた友人か、家族やペットとやってみるのがいいかもしれません。
それでも、とても研ぎ澄まされた時間だったので、
紙袋の中の相手のお顔が、高木さんが喋ると高木さんになっていたり、
自分を意識しすぎると自分になったり、
そんな感じがしました。
小さな紙袋の中の鏡をのぞく実験もやりました。
中には小さな顔があります。
見慣れている顔ですが、「これが自分?」という感覚がありました。
それは、もしかしたらたくさんの群集に混じっていてもおかしくない顔でした。
不思議な感覚です。
その後もいくつか実験しました。
なにかぼんやりしていますが、新しい感覚がひとつ増えたような気がしました。
でも、それはもともと持っていた感覚で忘れていただけなのでしょう。
なにもない空っぽの頭で空間を眺めることは、すべて立体映画を見るように新鮮なのでしょう。
天井も床も壁も、奇跡のように感じられるものだったのでしょう。
そんなこと、忘れていただけなのです。
きっと生まれたときはあんなに感動していたのに。
as it were (まるで)
の世界ではなく
as it is (あるがまま)
の世界で